猫も杓子も右も左も

思ったことを思うように書けるようなりたいです好きなことを好きに書けるようになりたいです

ユーリはホモアニメじゃない

 

ユーリオンアイス見てます。 

OPがすごーく格好良かったのとヴィクトルがすごーーーーーーーーーく格好良かったという理由だけで見続けています。

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ひえ~~かっこういい

 

 

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ひえ~~かわいらしい

 

 

 しかし胸を張って言っておきますが(胸を張るようなことではないです)、自分は腐女子ではないです!(初めて友達に見せてもらったBLが、中年の汚いおじさんがひたすら暴力受けるだけの上級者用だったトラウマが癒えないから)

 

とにかくヴィクトル単体が格好良いことをモチベーションに見続けてるので公式に色々押し付けられてしんどいです。自分には重荷すぎる。

 

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ひえーーーーやめてくれーーー

 

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唇テカテカにせんといてくれーーーーーーーー

 

 でもでも、それよりも何よりも話が面白い。最高のエンターテインメント。キャラクターの魅力。全員が発光している。凝っている描写もたくさんで、考察の余地だらけ。

 

人の考察見るのが大好きなのでツイッターの反応とか調べてみるんですけど、いつも自分では考えられない腐女子ならではの見解とか沢山出てきてすごい楽しい!なるほどって思ったりもする、

 

の、ですけど、

 

最近ずっとムズムズしてたんです。

 

 腐女子の免罪符

「ユーリオンアイスは愛の物語」

 

 

これだけどうしようもなく引っかかってる。

 

見てたら嫌でも伝わってくるんですけど、ユーリって師弟愛異性愛同性愛(?)家族愛郷土愛…ほんとに色んな関係性の中での愛が描写されてる「愛の物語」なんですよね。超それ~~~。ほんとにそれ~~!ってなります。

 

なるんですけど、

 

普段めっぽう同性愛を娯楽として甘受してる腐女子が口を揃えて「ユーリオンアイスは師弟愛同性愛家族愛郷土愛………愛の物語」。

免罪符みたいで恥ずかしい!

 

 少数派であるセクシャリティを娯楽の中でジャンルの一部にしている人がそんな大仰に愛の形の多様性を語るの、なんだか滑稽ではないですか?

 

BLや腐女子、その考察に抵抗を感じているわけではないけど、自分の趣向を崇高なものにしようとする浅はかな動作にしかみえない。

私自身も含めて。

 

 

というかそもそも、

 

こんな「ホモアニメ」で「ホモを嗜む人」が感じざるを得ない「愛」ってなに?

 

ユーリオンアイスが表現しようとしてる愛ってなに?

 

正直わからなくてよかったし、わからないままで充分楽しかったんですけど、

久保ミツロウさんのツイッターとそれに対する一般人のリプを見た瞬間、

わかりたいと思ってしまって、それと同時に自分なりの結論もやってきました。

 

 

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 自分は、胸を張って断言します。共感されなくて構いませんし、浅はかでも恥ずかしくないです。

 

ユーリオンアイスは「自己愛」のアニメ

 

上から下への愛、下から上への愛、親愛、敬愛、人愛、博愛、たしかに、ユーリオンアイスの世界の中で生きている人の中で、色んな形の愛が芽生えて、育まれている。

 

色んな方向から、色んな形で、愛情を受けて、返して、その相互関係に名前はそれぞれ付けられるけど、

 

この世界の中で描かれているどの人間にも確実に育てられてるのは、自己愛だと思います。

 

 

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例えば勝生勇利、

 

GF行く技術も元々持ってるのにすぐにニヒルな態度とってしまって、そのまま引退も考えてた勇利。それが、1話からヴィクトルきっかけにいろんな愛情をかけてもらって、今までかけてもらった愛情も確信に変わって、今いろんな形で愛情返そうとしてる(優勝とか指輪とか)。ユーリオンアイスで一番成長した人間の一人。

ヴィクトルをきっかけに成長した勇利。ヴィクトルに育ててもらったのは他でもない、自分を認めて、自分で戦って、自分を相手に賭けるような、自己愛、自信。

 

他人からの愛情は人を強くしてくれる。

強くなって初めて他人へ愛情を示す勇気が湧いてくる。

 

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例えばヴィクトル、

例の10話ラスト。

彼が長谷津にやってきたのはたまたま所謂インスピレーションじゃなくて、GFのあとに勇利がかけた言葉。

あの言葉によって、インスピレーションが湧かなくなった自分に新たな可能性がみつかったわけで。(10話の最後のあの表情は勇利に対してじゃなくて自分のこれからに対してのワクワクからきたものであってほしい)

つまりヴィクトルから勇利への愛情の原動力は、やはり自己愛だと思うのです。

 

 

そういう面でユーリオンアイスは他人からの愛情ありきの自分への愛情と、自分への愛情ありきの他人への愛情のお話。

 

愛されるから愛することができる。

 

ユーリオンアイスのキャラクターが魅力に溢れている理由は、全員が、他人からの愛を素直に純粋に、他でもない自分に向かったものとして吸収できているからだ、と思うのです。どうでしょうか。

  

そして、これを踏まえて、これとは全く反対に、

ユーリオンアイスが絶対に描かない愛。

 

ユーリオンアイスで「自己犠牲」は描かれない

 

自分を犠牲にする程深い愛って魅力的です。アンパンマンが自分の顔面をちぎってまで畜生を助けること。大抵のアニメで置き換えられる愛情の形です。

 

でも、スケートってそうはいかない。

 

団体スポーツなら自分を犠牲にすることでチームが勝利する展開も多々あるけど、スケートは自分を魅せる競技。愛情表現の為に自分を無碍にすることなんて、あってはならない。

 

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勇利は、誰かの為に自分を消費したりしない。7話かな?「自分の評価はどうでもいい、ヴィクトルの面子が」みたいな発言をしていたけど、ヴィクトルに面目立てる唯一無二の方法は、自分自身が輝くこと。自分をすり減らす選択肢は誰にもない。

 

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コーチであるヴィクトルも自己犠牲なんて絶対にしない。「勇利をGFで優勝させる」ために動いているんじゃなくて、「新しい自分の可能性に確信を持つ」ために勇利の元へ行くことを(無意識だとしても)決心している。と、思っています。

 

ユーリオンアイスのキャラクターに自分をすり減らして抽出した愛情なんて似合わない。彼らは何より自分を愛することができるから!

…どうでしょうか。

 

ここで話を戻したいのですが、

「ユーリオンアイスは愛の物語」

腐女子が口を揃える現象。

 

 

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この世界はユーリオンアイスの世界と別のもの。

誰かを、何かを愛することの代償に、自分が傷つく。

同性での恋愛に対する生きづらさを、受け入れざるを得ない。

 

ユーリオンアイスは、そうやって傷ついているすべての人に、自分を愛すること、好きなものを愛すること、愛してもらうことの正当性を訴える力のあるものだと思っています。

 

このアニメの視聴者が、アニメに描かれたどの関係性を娯楽として受け取ったとしても、その根底にあるのは「真っ当な自己愛」なのではないでしょうか。

 

もちろんこれは私の願望から来た考えですが、もしもこのアニメを通して「自己愛の正当性」が傷ついた人に届くなら、声高々に挙げられる例の文言は、免罪符どころか罪という観念さえ消し飛ぶパワーをはらんでいる気さえします。

そう願っています。

 

 おしまい!

 

ちなみにこの文章はほぼ全てが友達にラインで送ろうとした瞬間思いとどまったもののコピペです。口調を変えたくらいです。改めて送信しなくてよかった。